第1話を観ました。「怖い」ってtweetするひとを多く見ますが、怖いという単語ではないものを感じます。怖いというのは、他の場所に対しての言葉のような気がする。例えば私の居る場所は福井の原発が壊れたら被曝する、と京都で小学生の頃習いました。チェルノブイリは怖い、ではなく、私たちは明日被曝するかも知れない場所に居る当事者だということを忘れないでいたいです。
有事の際、私は混乱のなかで叫ぶだけではなく、何処にヨウ素が置かれているか必死で考えて誰かに伝えたい。そっちはメルトダウンの中心部だ、行くな! と引きずり止めたい。その為に生まれているんだろう。こんな弱っちい自分、何も出来ない可能性だって高いけれど、私は核崩壊の論理の初歩を勉強したし、ヒロシマやナガサキの文献も読んだ。未だ動く二本の腕や誰かを呼ぶ声がある。兎に角ひとりでも死なせたくないというこの気持ちは何なんだろう。こんなに弱っちい自分、情けないことばかりだけれど。本当は何も出来ないかも知れないけれど。今の考えくらい起立していたい。
原発賛成派もこのドラマを見やがれ的な反原発主義日本人のルサンチマンに利用されてはいけないと思います。(私は原発には反対です)
詩人が出来る仕事って、例えばそにっくなーすの朗読から伝わる心のことだ。
懐かしい防人の歌のメロディに合わせ 父の死をうたいながら
私はチェルノブイリのゲートを越えてゆきます。
5日後にオープンするはずだった遊園地で遊ぶ子どもたちが笑っています。泣いています。思い思いの顔をしています。彼らの目線の方向を辿るとあの日の様子が、まるで体験したことのように、瞼に焼き付きました。(ポエトリーリーディング by そにっくなーす)
H29.3.11「ことばが死ななかったよる」/そにっくなーす - YouTube