文庫化にあたり加筆した新刊『ウソツキムスメ』より、部分引用を記載します。ご試読くださいませ。
テーブルの近くに落ちている、つめたい日溜まり。
こころのなかで呟く。
(この家には微笑家がうようよしていやがる、)
ああ、これは、蒼也くんの声だ。
腐乱と憎悪。
□
私は部屋を出て、白い廊下を歩いて別の部屋の扉を叩いた。
「左近です」
「ああ。お早う。彼女の調子はどうかな?」
部屋に入ると、先生が振り向いて云った。私は細く息を吸い、落ち着いた口調を心がけて報告した。先生には優秀な学生だと思われたい。
「比較的元気です。現在のところ認められている人格はふたりです。十八歳の少女である赤岸もな美、それから蒼也という十一歳の少年」
私が云うと先生は可笑しそうにわらった。
「残念ながら、それでは成績は、可しかあげられないだろうね。ほんとうは、三人居るんだ」
「え、だって、そんな……」
「人格はふたりじゃない、三人居るんだ」
モナミ、蒼也。それから、
「……私は誰ですか?」
「海に流す」
「私が最期に逢ったのよ。その夜あのお店で食事をして、別れた直後。車に乗って、突っ込んでいっちゃった」
彼女はふわふわと中空を見つめ、不自然に赤みの差した唇が言葉を紡いだ。
「あのひと、今、何歳なんだろ、」
彼女はそれ以上、それについては喋らなかった。僕は一瞬かっとなって「あのひと」に烈しく嫉妬した。でも、黙っていた。僕たちは堤防の先端で、低い空からこぼれる水が、海のかさを眼に見えない速さで増やしてゆく様を眺めた。僕は海底に沈む、「長くて高くてかっこいい車」を想った。それから海に沈んでいる他の沢山の品々のことも。豪華客船とか、宝石とか、ラムネの入っていた薄緑色のとか。でも海は広いから、そんなものは微量にも満たない。
「いくら海が大きいからって……、」
彼女が云う。怒るというより傷付いたような口調で。
「あんな車で突っ込んじゃいけないと思う」
白いやわらかな頬を涙がつたい落ちた。
「どうしよう……」
彼女は躰を曲げて涙声で呟いた。
「どうしよう。私は嘘ばかりついている……」
彼女は僕の首に腕をまわして、いっそう泣いた。
「このつけはいつ回ってくるの?……そう思うと怖くて怖くて、それを先延ばしにするためにまた嘘をついているの。このつけはいつめぐってくるの?罰が与えられるのが怖いのよ。このつけはいつめぐってくるんだろう……」
僕は彼女の傘が地面に落ちてしまったので、自分の傘を彼女の方に差しかけた。困惑して何も云えなくなる。砂の上に転がった派手な傘。「正直な目なんて……」
僕はなんと云おうとしたのだろう。
「嘘をついたことある?」
と、彼女は訊いた。バス停の屋根付き待合所のベンチに並んで座って、泣き止んだ彼女は僕の肩にあたまを凭れさせていた。
「あるよ。勿論あるよ。いっぱいあるよ」
僕は答える。
「いちばんはじめに犯した罪を、憶えている?」
彼女は訊いた。
「一番最初?」
「生まれて初めての罪、」