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エッセー・うっすら光る遠い途

うっすら光る遠い途 -Mathmatic Mathmagic-  


 努力をしない生徒だった。この出だしを書いてから暫し努力という言葉が何を意味するのかも判らず、ゲシュタルト崩壊するしか無いほどに努力をしない生徒だった。私にとっての努力とは往々にして暗記だ。自然に記憶することについては頓着しないが自分に強いて暗記を行うことは無かったので、そんな生徒では数学しか解けない。これまで[生徒]と書いているが、つまり高校生までの話である。
 至高数学天、というものをいつもふんわりと思い浮かべていた。数学の途を真っ直ぐに辿ってゆけば、至高数学天なる場所にいつか到達するのだと思っていた。高校生にして夢見がちである。私はただ、本当に、至高数学天にゆきたかった。数学を志せばいつか到達出来ると思っていたのだ。
 でも、絶対にそこにはゆけなかった。私が数学について全く真摯でなかったわけではない、ただ私は足りなかった。高校の恩師は国立大学の理学部に居たあと自分にはセンスが足りないと感じ、高校の教師になったひとだった。塾の先生はオランダで数学を修め、そして帰国して……一塾講師となった。
 彼等が(努力もしなかった私のことは兎も角)凡人だったわけではない。
 ただ、その未知なる途は本当に永いのだ。ピタゴラスアルキメデスも、ガリレオガリレイも、新潮文庫で名高い「フェルマーの最終定理」のフェルマーも、数学の最終的な結論には達していない。
 最終的な結論?
 何処迄行っても、この世界にはまだ先がある、と知ったときに思い知るものは何か? それは挫折と呼べる。果てが無いことと目的地は決して見えないこととの同義性。数学を少し始めればすぐ判る、その世界が無限だということは。私はいつか挫折するのだと知りながら生きる。本当に、誰も、最終的な答えを数学に見つけることなど無い。ゲームではラスボスを倒せば良いが、ここでは誰もラスボスなんかに会えない。何処かで、ここまでは自分は辿り着いたと、道標を遺して人生を終える。なんて儚いこと。儚い一生を、生き始める最初から、見据えて生きる。まるでおとぎ話のように。自分の人生が自分のおもちゃであるかのように、目的の宝物のことばかりに気を取られず何処をどう歩むかばかり考えて生きる。
 皆、有りもしない至高数学天を一瞬夢見ていたのだろうか。果てがないと最初に自ら証明式で示した途を歩んでゆく、数学者。皆が皆こうあれぞかしとは云えねども数学者はいとおしい。誰もが何処かで道標を遺して消えてゆく、遥かな道の最初でもう進めないと挫折した私も、構成のなかの一瞬だったのだ。それは私も単なる、大きな時間のなかの多くの生物のなかのひとつだということに、よく似ているのだ。



(初出・YUTORI TIMES / TNBG寄稿 )  



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