うわくちびると下くちびるとに指で伸ばし
おやすみVaseline良い子なんだね
唇に伸ばすヴァセリン無味無臭
塗つて眠らふ起きてまた塗らふ
#tanka
唇の皮が酷く荒れてしまったので、Vaselineを塗りました。心当たりは無くて、乱れ切った食生活、というよりも、洗顔料を唇に付けたのが良くなかったのかも知れない。友人は蜂蜜とザラメ砂糖でいつもパックをすると云うが、蜂蜜は少々苦手で、ザラメ糖の買い置きは無かった。だいいち家に砂糖はあまり置かない。Vaselineだけがあった。7gという、小さな小さなパッケージのものである。
Vaselineのあじは知らない。リップクリームのあじも知らない。嗅覚過敏な私はまた、味覚についても大いに遅れている。 あなたたちよくも、未知の匂いをひとの鼻に突き出して嗅ぎあったり、知らないフレイヴァでころころ喜んだり出来るものだわと思う。いや、私が劣化種なのだろう。きっとそう。
さて唇。紅を差したから荒れたのだろうか。私は化粧の一から十まで知らないので難儀していて、何故知らないのかと云えば、一から十まで知るべきタイミングを、自分で率先して知りにもゆかず又教えてくれるひともいなかった為だ。大学では、女性用就職活動メイク講座なんていうものに、他の人々は行っていたらしい。ナンセンスなようにも感じるが、しかし私はその時期、脚本と主演をしていた『モナミ』という劇でいっぱいいっぱいで、同じゼミのひとたちが何をしているか知ったこっちゃなかった。何故、私には情報が届かなかったのだろう。補記しておくと演劇はサークル活動でなく、ワークショップ分野しての大学の授業である。(他に広告表現技法というワークショップを取ったけれど、その講義は物凄く嫌悪していた。シナリオ表現技法は楽しい時間だった)
ワークショップの先生と助手の方と、『モナミ』の上演後に焼肉を食べてからカクテルバーに行った。ウオッカを信仰している私は、常にウオッカベースのカクテルを頼む。
先生が云った。
「シンガポールスリングは、どうかしら?」
「あまりジンは分からなくて」
私は答える。
助手のお兄さんは静かにレッド・アイをのんでいる。女性の先生も、姉と呼べそうな年齢だったのに、静かな場所にある一樹の白樺のように、落ち着いていて大人っぽく見えた。
「私が頼むから、少しのんでみなさいよ」
先生は云う。
「いずみちゃんには、人生の美味しいもの楽しいもの、ぜんぶ教えてあげたいの」
もうずっと前のそのひとことが、痺れる。
脳幹から痺れる。
『モナミ』のあのときのみんなと先生は、元気ですか。
私はちゃんとちゃんと、ちゃんとちゃんとちゃんとちゃんとして元気です、と伝えたいと思っています。籍を入れる前に、その相手と私と先生と3人で逢って欲しいと頼んだら、三条にいらしてくださって、その折は本当にありがとうございました。いつかは良きカクテルバーで、籍を入れたひととふたりでグラスを合わせられるなら、私はきっとそのとき、シンガポールスリングを頼むでしょう。
チェリーの甘み。
これからの人生、もう誰も、あのフレーズを云わないのではないかと、思うときがある。
あの声は二度と来ない二度と来ない。
「いずみちゃんには、美味しいもの、全部ぜんぶ教えてあげたいの」
あの木屋町のシェリーバーで再び、云われた言葉。私の心の底に刻まれてしまった。全部、ぜんぶ。
教えてあげたいの。
シェリーは美味しかったけれど、視神経をぐんにゃり曲げて、恐らくそれは、酔ったということに似ていて、恋にはもっと似ていた。先生、好きです。
素敵なもの、全部教えてあげたいの。
あなたには、心地良きものすべて伝えたい。そういう根源のある、拙い想いを育んで、いま尚も。
チェリー。
ジン。
シンガポールの夕焼け。
チェリーブランデー。
手を付けなかったミックスナッツ。
同じく、チョコレイト。
少しだけ触れた先生と私の手。
ああ、柔らかくて潤む、おんなのひとで、私に対して優しくしようと思っていてくださるのだと知れる、そういうひとの、手。
おやすみなさい。今日も、良い月が浮かんでいる。ネコトコは静かに眠りを迎えます。
どうして籍を入れる前の彼を、先生に逢って貰って欲しかったのでしょう。先生を尊敬していたからだと思います。実のところ両親には何もお伺いを立てなかった。
内臓があったかい。耳と頬がつめたい。髪は室温を感じずに揺れる。
あったかいね。もう無い場所。ばーかばーか。
髪は伸びる。口唇にはVaseline、ほか、もう、なにも無い。なにも無いことは強いことだ。さよなら。もう誰もいない。凄く好き。