理系生物クラスのsという子と当時仲が良くて、高校生になった頃から、大学生活の日々の相談まで、そのあいだ色々と話していた。彼女は生物クラスで私は物理クラス。だが、お互い高校では国公立理系ということで、数学の勉強は共に出来た。私は高校に入ってから保健室に篭り気味で、sは配布される授業についての藁半紙の裏に、手紙やメモを書いて保健室まで渡しにきた。
或るとき「冷静になる呪文」というメモが渡された。ひんやりしたものを次々に数えるらしい。
アイスクリーム・シャーベット・北極くま・南極ペンギン・冷蔵庫・冷凍庫・かき氷・ささめ雪・雪わたり・ひやそうめん・窓ガラス・ソーダ水・氷水・すり氷・フィンランド・冷蔵庫のなかのきゅうり・屋上の風・透明水彩・金魚鉢・アイスランド・卵の番人
「冷蔵庫のなかのきゅうり」というのは村上春樹の『スプートニクの恋人』のなかで、主人公が喩え話に使う語である。『卵の番人』は、映画。
最近悩むねん。彼女は云う。悩み深いのよ。苛ついてしまうねん。
sは塾の授業進行がまるっきり解らないことや、志望校の設定や、高校の授業や試験に悩み、私は出来る範囲で話し合った。私の方が、何かと教える側に回ったことの方が多かった。夏休みに高校が企画しているホームステイに行ったあと、ホストファミリーが送ってくる英語のメールを訳して欲しい、返事を書いたから見て欲しい、とsはよくルーズリーフを持って、私の居る教室を訪れた。夜に家へ、FAXでくることもあった。
悩み深いねん。そうだねえ。苛々してしまうの。うん、苛々するよね。
「冷静になる呪文」は、自分の苛々する気持ちから逃れる為に書かれていたのだろう。
それでもsはきちんと、国公立大学の農学部に進んだ。
「悩み深いねん」は止まらず、そのわりに年始第一回目に「超絶頑張った」こととして、目玉親父のついたボールペンを先着順に並んで貰ったから見て、と云ったりする。摑みどころの無い子というより、摑みどころの無さが特徴というようで、ふわっと浮かぶ透明な水海月のようで、私は彼女と話すのが好きだった。
sは就職活動に悩んだ末に、私と連絡を絶ってしまった。私の方が就職活動が上手くいっているとかそういうわけではないので、とっても不合理だと思ったし、寂しかったし、悲しく、不満もあった。常におおきな悩み事の相談相手だった私はいつしか、悩み事をすぐに思い出させる存在としての友人に変わっていたらしい。携帯電話の通話拒否というものに、初めて遭った。胸がさっと冷え、涙は出なかった。それほどまでに病むほど彼女は悩んでいたわけだが、私だってそんな展開を望んだわけではない。携帯電話のメールが届かず、通話が拒絶されたらもう、繋がるすべは無かった。ちょっと嫌になった。そう云えば、私は彼女の「悩み深き」を聴いて相槌を打たねばならない状況が何度も続くと、いつも内心ちょっと嫌になっていたんだと思う。
元気ですか? 私はあの頃と同じペンネームで生きているよ。何人かの私と連絡を絶った同級生のなかで、私の名前は邪魔な単語なんだろうと思う。それともからきし覚えていない? 検索しても、SNSでもすぐ見つかる。あなたたちは楽しそう。
私は、女子の友だちがとっても好きで、女子友だちとしての私の存在がすっごく嫌いだ。
何はともあれ、あなたたちがわらっている瞬間が1秒でも延び、生き延ばされてゆけば良いと思います。
20210616