--My Sample Book--
この町に越してきてから、おそらく二年ほどになる。「街」という表記よりは「町」である。「町」には、最初は参った気分にさせられた。私は前は割合に様々な便の良い場所に家を借りていたので、この、スーパーマーケットが一軒ある他はやたらと駐車場の広いコンヴィニエンスストアばかりの町並みに、どうしたものかと思ったりもした。何しろ、本屋が無い。本屋が近所に無い状態など、今まで経験したことがなかった、という私の経験則は、独りよがりなのであろうか。それから、音楽CDを売っている店も、CDやDVDのレンタルショップも、無い。車があればちょくちょくと運転していって何かしら用途を足せたのかも知れないが、残念なことに私は免許を持っていない。健康上の理由から取得出来ないでいるのだ。普段の生活には全く支障をきたすわけではないのだが。
話が逸れた。
この町に越してきてから、おそらく二年ほどになる。私はここではアパルトメントを借りている。二階の角の部屋だ。隣の部屋も下の部屋も子育てをしている家庭らしく、ときどき子どもの大声やそれを叱責する親の声が聞こえてくる。失礼ながら親御さんの声の方がヒステリックだったり暴力的だったりするときがあって、私は「迷わず、110番、気づいてあげて、子どものために」という、スーパーマーケットに貼ってあるポスタを思い出す。しかしその子どもたちは廊下やエントランスホールで出逢ったりすると屈託のない笑顔で挨拶をしてくるので、被虐待児だとは思えないのだった。
上の部屋には住まうひとについてはよく知らない。引越してきたとき、粗品を持って挨拶をしに何度か尋ねたのだが、インタフォンを押しても反応が無かったのだった。粗品のタオルは少し古ぼけてしまった包装紙に包まれて、押し入れのなかにある。もう、あのタオルを私が使ってしまっても良い頃合いではないだろうか。
上の部屋のひとは、木工が趣味である。彼又は彼女は毎日仕事に出掛けず、朝から晩まででは云い過ぎであるが、鋸を引く音や、釘を打つ音、ねじ回しの音が聞こえてくるのだ。時にはビスが床を転がっている音がする。それが、一日のどんな時間にも、唐突に起こるのだ。ああ、上の方はまた、ビスの小箱を取り落としたか何かしたかな、と私は思う。朝四時であっても。午後二時であっても、夕食を食べている七時であっても。時には、電動ドリルは床に差し込まれているのではないかと思わせられるときがある。なんだか、私の方に向かっている気がするのだがしかし気のせいでしかないだろう。ふっとかおを上げると電動ドリルの先が私の部屋の天井を破って突き出し、轟音と共に天井に穴が空き、そこには上の部屋の方のいよいよの初対面としてはエキセントリック過ぎやしないかと思う状況での対面……いや、考えたくない。ただ、床の上で木工をするのが趣味であるひとなのだ。それだけ、それだけ。
しかしビスはよく転がる。あんなに落っことして大丈夫なのだろうかと思うくらいにちょくちょくと音がする。ビスよりも釘なんかが落ちたら大層危ない。派手に沢山ぶち撒けたとき、二三個がころころと床を転がりゆくとき。床を転がりゆく? つまりこの建物は、地面に水平ではないのか。建築のことには暗いが、完全に水平に建っている家があるのかという問いの答えを知らない。
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アパルトメントのことばかりを書いたが、実際にはこの周囲には古びた一軒家が多い。平屋もある。大抵、住んでいるのはご老人だ。入り口で話し合ったり、入り口の周りに置いてある植木鉢をいじったり、そういうことをしているのはおばあさんが多い。おじいさんたちは、タイラガワ公園のベンチで煙草をのみながら喋っている。おばあさんたちは、嫌煙権を訴えたりするのだろうか。タイラガワ公園は広く、この町のなかほどにあって行き易い上にベンチが多いから、集まってゆき易いのだろうか。私はどちらかと云うと嫌煙家な方なので、あまり近付かないようにしている。
それよりも、興味を持っているのは、家々の植木鉢なのだ。
植木鉢は、二三個、いやもっと、派手な場所ではあらゆる大地に水平な場所に、そして壁と窓枠に蔦を這わせていたりする。道路にはみ出していて、ここは私有地ではないのではないかと思うような場所にも、割合どんどんはみ出して、歩道の半分を塞いでいるようなときもある。花も咲く。ちゅーりっぷ。そしてあじさい、あさがお、ゆうがお。金木犀の生け垣。牡丹。理解に苦しむ存在は、サボテンくらいか。
私はデヂタルカメラを携帯して歩くことが多いので、その草花を撮影したくなってしまう。しかし、他人の家の植木鉢を撮影することはあまりよろしくないだろう。いや、全く全くによろしくなど無いかも知れない。あさがおの白と青と赤紫の流れゆくなかの、青々とした蔓や葉は、私の家にはないのに。買ってくることも出来ない。仮に私の部屋のバルコニィで育てようにも、こんな風な景色は仕上がらない。だから、撮りたい。しかし、何かしらの問題行為と受け取られて面倒な事態が待っているかも知れないことは、やはり、出来ない。
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夜だった。私は駅で下車し、商店街とは名ばかりの住居ばかりの道を歩き、しかし商店街の主張として街灯にD商店街という名前と一緒に点いているぽわんぽわんと丸いネオンだけを、なんとなく撮影しながら歩いていた。光と電線のコンヴィネーションはいつだって心地よく感じて、よく撮ってしまう。たぶん街灯の撮影ならば、特に文句も云われないだろう。
そう、夜だ。人通りも無い。
写真を撮っても、見つからない。
いや、しかし。見つからないならしても良いという案はない。天の神さまが見ていらっしゃると思うほどの信心深さは持ち合わせていないけれど、ちょっとした良心くらいは持っているのだ。私は熱意を込めて植木鉢どもを眺めながらアパルトメントまでの帰路を辿った。
あさがおが黒い種を結んだ頃の季節であった。夏休みも終わったのだろう、九月である。秋の花たちが莟になるより未だ少々前、その時期は、色んな葉だけがその植木鉢の情報だ。この鉢はあさがおの残骸、この心臓型の葉はシクラメン、ええっとこれは、ヤツデか?
ヤツデか……。
ヤツデという葉を最初に知ったのは小さい頃の絵本で、「てんぐちゃん」が持っていたときだった。それは団扇のようだが、「てんぐちゃん」にとっては、たぶん団扇ではないのだろう。天狗は何故にヤツデを持っているのか、結局知らないままに今に至る。しかし、ヤツデの葉の形に似ているが、ヤツデはこんな風に壁を這うように成長するものではないのではないか? 思い違いだろうか。
少しだけ歩みを止めたあと、また隣の家の鉢から出ている葉が目に入った。この葉はあさがおに似ているけれど、しかしあさがおの葉というものはもうちょっと均整の取れた形ではなかったか、と考えを巡らす。小学1年生のときに押し花と押し葉にすることが、授業中にあった。あのときの形とこの葉は全然違う。なんだこれは。気になってきてしまった。
もしかして先ほどのヤツデだと思ったあれも、私の全然知らない植物だっただろうか。
撮影……と思った手を止めた。他人の家の玄関先などを勝手に撮ってはいけない。先ほどの戒めをもう一度繰り返す。
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その日のあと数日後は、花のある辺りではなく、葉っぱばかりに視線を向けてしまうようになる。押し葉にしてみたいなあなどと、普段の自分には無い望みが生まれている。写真よりも、欲しいもの。それは、標本だ。虫だの貝だのの標本というものを作ったことは無いが、あの家々によって異なる奇妙な形の葉を、並べて、その差異に満足感を覚えたい。自分がそういう人格だったということに気づいたのも少々面白かった。しかし、他人の家に置いてある草花から、勝手にちぎり盗ってはいけないだろう。それは写真撮影よりもまた上をゆくような犯罪行為に思える。どうしろというのだ、と私は思った。どうしろというのだ。
あのぅ、……葉っぱ、一枚だけ、頂きたいんですけれど。
科白を考えるのは簡単だ。たぶん不意に来た人間の不意打ちの発言に家主は戸惑うだろうが大抵のひとなら、どうぞ持ってゆくがいいでしょう、と答えてくれるだろう。でも云えない。云えないね、云えたもんじゃない。ゲンダイニッポンのまあまあ人口は多い町──「街」ではなく「町」だが──で、インタフォンの釦を押して住人を呼び立て、こんな文句を口走ったり出来るわけがない。葉の形が気になるだけなのに。押し葉にしてみたいだけなのに。ゲンダイニッポンの様々な研究家の人たちは、どうやって標本の元を収集しているのだろう。または、蒐集しているのだろう。全くに疑問に思った。
***
二日間ほど、じろじろと近隣の家々の葉に視線をやりながら、暮らしていた。そう、時間にしてみたら、私の気持ちは三日間くらいで終わったのだ。
夕刻、コンヴィニエンスストアでパウチのゼリィ飲料を買ったあと、葉を眺めながら、少々行儀が悪いが私は立ち飲みをしていた。残暑はほどほどに停滞し、だから喉が乾いていたのだ。横を見ると、薄水色のワンピースの少女が私と同じものを視線の先にくれているのだった。背は、少々高いめ。黄色い帽子を被っているから、小学生だ。ちらと私を見る、その目元は涼やかだった。
「これね、あたしが小学校一年生のときに、植えたやつなの。あさがお」
彼女はわたしが何を気にしているのか、確と分かっているらしく、葉の形のふちに少し人差し指を伸ばしてかたどった。
「これは、あさがおなの、」
私は少女が発した声に驚き、内容にも少々驚き、問い返した。
「葉っぱがね、曲がっちゃった。一年生のときに種が取れたから、その種で二年生のときは家で育てたの。あさがおって、とっても沢山種が取れるでしょう。取れるの。えこひいきは狡いから、全部撒いちゃった。こんなちっちゃいプランタなのにね」
少女の話は続いた。
もう、大変なの、全部発芽するんだもん。こんなちっちゃいプランタからなのに大量にどぉっと芽が出てきたの。それにね、やっぱり生存本能っていうのかな。凄い感じで伸びるの。周りの芽に負けられるものですか、という気持ちで満々なんだよ。双葉のときからもう変な状態だし、本葉になるともう、プランタは、かなりやばかった。あさがお地獄って感じ。花も咲いたけれど、小さかったけれど、咲いた。
でね、種子がまた出来るわけ。あさがおも賢いからさ、種子をいっぱい結ぶより、強くて大きなのをひとつ結べば良いんじゃないかと考えたっていうか、つまりその年は黒々と大きな種子がとれました。でもやっぱり多いんだよね。だって、次は三代目の種子だもの。
でもさ。
分け隔て出来ないのだもの。
出来ないとは思わない?
種がここにあるのに、きみは貧相だから植えずに捨てます、なんて宣告、出来ないよ。
だからザ・アサガオ・サヴァイヴァルはずっと続いたのね。サヴァイヴァルってひとを狂わせるのかな……生存本能とかさ、色々自分が変わっちゃうのかな……。種子も変わったけれど、葉の形がだんだんおかしくなっていったの。突然変異のミニミニ版みたいな感じなのかなあ。だからね、なんだかもう、みんな変な形になって、こんな形になっちゃった。テストで葉の形状を書きなさいって云われたって、これじゃあ間違えてしまうよね。
私のこともよく知らないだろうに、彼女は感じた謎の多くを解き明かしてくれた。
風が吹く。彼女のワンピースの水色が、夕闇に眩しい。秋風よりひとつ手前のその時間。
「あたし、今六年生だから」
彼女が云った。
「来年は、植えようか、どうしようか、迷ってる。だってもう、ミュータントのミュータントばっかり作っていったら、それはそれで、可哀想かも知れない」
私は、もう今は、あさがおよりも彼女を写真に撮りたかった。彼女は、どんどん変化してゆくだろう。綺麗な娘になるだろう。時には嘘を吐くだろう。時には皮肉を云うだろう。
標本にしたいと思った。
しかしこれは、今までに私が危惧した過ちよりももっと怪しまれて然るべき考えなので、私はパウチ飲料を潰してコンヴィニエンスストアの可燃ごみの箱に投げ入れ、彼女に少し頷いてわらって見せて、帰途に着いた。きみだって私からしてみれば奇跡のミュータントのような綺麗な存在だ、と思ったけれど、その気持ちを視線に含められたかはよくわからない。
来年、私はまだこの町にまだ居るだろうか。彼女は種子をどうするのだろうか。あさがおはまたミュータントの種子を結ぶのだろうか。
彼女がその家の子どもなのだろうなとは思ったが、やはり、「葉っぱ、一枚だけ下さい」とは云えなかった。それは云えたものじゃない。採取は難しい。
採取や蒐集は、とても、難しい。
Every morning glory would say "hi" to me, in summer.