Komma usw.

背後にクロチネさんがいる。

希死念慮と勘違いしない為のメモ

 今よりお利口ではなかった頃、死にたい気持ちのときは誰か仲良くしてくれているひとに、死にたい、と伝えなければ、ちゃんと死にたいになっていないような気がしていた。伝えるツールとして、携帯電話のメールでひとに構って貰うのが、便利過ぎた時代のタイミングでもあった。基本的に既読かどうかはLINEと違って分からないから、所謂メンヘラ具合が高まった。だからと云って、何人も連絡先があったわけでなく、むしろ、無かった。いや、居ないっしょ。居るけど、したくないでしょう。
 それでも、鬱とか、死にたいというネガティヴな気持ちこそ、仲の良い友だちに連絡するべきだと思っていた。のだと、振り返ってみて思う。で、前述の通り、上手な相談相手が居たとか、相談の仕方に長けていたわけではないので、少人数がっつり下手くそに重くしたのかも知れない。そんな莫迦な考えの所為でもう口を利くことを許してくれない友人があったし、それで凄く淋しい気に何度もなったけれど、淋しいー! と云いながら言葉の刃を振り回している人間は、通常社会の人間関係から離されても仕方ない話だったと今では解る。ごめんねはもう云えない。掘り起こしたら更なる被害なだけで。
 誰かに訴えなければ存在しないことになるから困るという考えは、違うんだと思うくらい、ちゃんと強くなったので、だいぶんと弱っている。出来るだけ大丈夫な場所を探して、まあ、ブログに書くくらいには、存在しても良いのか、とか、一応、思った。
 たまにはtwitterに書くかも知れないし、肝要なのは他人がそうすることについての反感は無いということ。

 それとはまた別の話で。
 鬱状態は、鬱であって、死にたいというのとは違うと、今ではわりと理解し始めたし、鬱とは体内の分泌液の量が狂っているだけだし、それは生まれつき治らない部分も、疲労が原因の部分もある。疲労の場合は休むべきであって、疲れを認識できないで希死念慮だと勘違いしてひとが死ぬことは惜しい、勿体ない。(ここで勿体って何なのか辞書をひく)
 生まれつきの場合も疲労の場合も、分泌液の加減を薬で或る程度変えられるので、死にたいと思うことを頑張らなくても、救いは、ある。薬なんて少ないに越したことはない主義のひともいるけれど、例えば周りのひとに、しんどいよーと云う回数を減らせるなら別に良くないですか? 周りにお腹すいたーって云いまくっている断食なんて変だ。


 とは云ってもPTSD的なものを繰り返し反芻してしまう日は、居られなくて、居られなくて、これはたぶん人間を信じ直すところから変えられないと治らないので、まだまだ生きられない。また来世〜。え、死ぬの? 自分から頑張って即効性で死ぬことは今はしません。輪廻転生は信じていないので、来世のことは考えていません。

 輪廻と云えば、特定の宗教の信徒よりも、博愛というか森羅万象を大事にする感じのひとは、けっこう厄介だし、悪しき思想と云いにくいだけに害がある。ものは何でも大事にしましょうっていう雰囲気は、なんか、それ大丈夫か? って思う。
 この派閥の日本人はたぶん多くて(日本人に多い気がする)、自分の都合良いタイミングで都合の良いものを「大事ね」と云うので、いんちきくさいし、無闇に「そんなもの大事ではない」と否定するのも大変なので、あーーーーーーってなりますね。あ、語彙力崩壊。
 つまり、本当のすべてを大事に出来ないのに、都合の良いときに「大事ね」と発言することは、大事ではないものを疎外するので、大変危ない。そして、「本当のすべて」なんていうものは無い。それは、定義出来ない。本当のすべてを大事に出来たらたぶんそれはギャグだ。



 セクシャルハラスメント防止パンフレットの話題を目にして、泣きながら書いたけれど、セクシャルハラスメント被害につていはほぼ触れていないな。あんなことがあるくらいなら、さっさと自殺しておけば良かったと、それは本当にそう思う。あんなことがあったのにちゃんと身相応に病んであれとかこれとかしてもっとつらくならなくて、本当に申し訳ないと思う。

 病みと闇が同じ発音なの、面白いね。


      


      


    



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