試読記事続きです。
「ナナンタさんの鈴の音」
ナナンタさんは、何歳なのだろうか。
わたしがお母さんの突っ掛けを履いた為に道で転んで、アスファルトの道路だったので擦り傷ができて酷く血が出たとき、ナナンタさんは小走りに駆け寄ってわたしを支え、自分の家の玄関先に招き入れてくれた。そこは祠の後ろに隠れた寂れた家なのだが、ナナンタさんはべそをかいているわたしのほっぺたを両手で挟んで、
「ひなかちゃん、痛い?痛かった?だいじょうぶ、だいじょうぶよ」
と、云いながら、傷口を消毒してくれた。
「痛い?」
「痛い……けど、へいき……」
ナナンタさんはランドセルを下ろすのに手を貸してくれ、桃色の紐の付いた銀色の鈴を家の奥から出してきて、わたしの手にのせた。
「あげるわ」
わたしが手を揺らすと、鈴は、ちりり、と鳴った。
「いいの?」
「もう痛くならないように、怪我をしないように、ひなかちゃんにあげるわ」
「……ありがとう」ナナンタさんのことは、そのあたりの子どもはみんな知っていた。ナナンタババア、と呼ぶ子もいたし、ナナババさん、と云い慣らす子もいたけれど、わたしは、ナナンタさん、だと思っていた。
「春眠」
「『──花の咲かない頃はよろしいのですが、花の季節になると、旅人はみんな森の花の下で気が変になりました』」
小さな声を出して読んでみる。もう一度、繰り返してみる。
「気が、変に、なりました」
私はいつからか気が変なのかも知れない。
外は春特有の白っぽい夕暮れだった。私は飾り窓の傍の椅子で坂口安吾を暗くなるまで読んだ。
「気が、変に、なりました」
夜だからワインでも飲むといいかも知れない。ロゼのスパークリングワインがいい。
冷蔵庫からそれを出してきてグラスに注ぎ、長いストロォで飲んだ。随分旧いストロォで、ぴんく色をしていて、途中でト音記号の形に曲がっているのだった。ワインはあかく、ぴんく色のストロォのなかを回転しながら私の口許まで昇ってくる。ト音記号に回転しながら昇ってくるワインなんて、気が変だ。
「気が、変に、なりました」
私はもう一回くちに出して、そう云った。
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嘘をつく罪悪感と、成長することへの怯えと、無償の愛と、孤独と生きる為に携えるものについて、8篇書きました。
— 白昼社 (@hakuchusha) January 19, 2017