Komma usw.

背後にクロチネさんがいる。

寒波と防寒

 寒波。
 尼崎に寒波なんてものはあるのか? と京都育ちの私は思うのですが、大寒波だそうです。どの程度のものかは分からない。
 東西線は止まった。
 歯科の予約があったので一応出掛けた、雪がしんしんと降っていた。「しんしん」は偉い。「こんこん」と「しんしん」を作り分けられているところが偉い。雪は降るときに音がしないから、それがいつも、とても不思議だ。何故不思議かというと、たぶん雪が多く降る場所にいないから、物珍しいのだ。それから、沢山の粉雪が舞い降りるなかに立っていると、逆に私が上昇しているような気分になる。
 Cさんがが迎えにきてくれるまで、歯科の近くの噴水もどき(とても噴水らしい形のモニュメントなのに、水が出たり、出る場所がある涸れた噴水であるわけではない物)で腰掛けて、キャンドゥで買ったGokuriをのみながら待っていた。下半身が冷えた。下半身を冷やすことを、気を付けることは気持ちが悪い。母に「お腰を冷やしちゃ駄目」と云われたとき、そこに私は私の未来の妊娠への配慮を感じ、私への配慮は感じないから厭だった。「いつか産むひと」と見られたことが気持ち悪くて堪らなかった。「オコシ」という単語に吐き気しか感じなかった。しかしいつも何度でも云われた。母は悪くないと思う。私がそういうものに嫌悪を感じる人間に育っちゃったのだ。あと、云うなれば思春期で、割り切れないっていう。
 Gokuriビックルをキャンドゥで買って、嬉しかった。そんじょそこらでは買えない。何故だろう。近所でGokuriのグレープフルーツ味を買えるのは、キャンドゥと駅のなかと改札外だけれど駅のなかの(駅ナカってつまりどうことだっけ?)自販機だけだ。美味しいのに。それから、日本酒をCさんと一緒に呑む為に、ちょうど良いグラスをふたつ買って、ちゅーりっぷと薔薇も買った。もうひとつは何か判らないけれど、ドライフラワーになりやすそうな、そして安かった花。花というか、草というか、花屋で売っていたから、花か。


 正直(っていうか、これは、「ぶっちゃけ」だよ)私はずっとコートに袖を通していなくて、台灣在住前後で色々失くなっちゃったものたちのなかに、ブーツとか、Oililyのマフラやスウェタァとか、失っていて、レッグウォーマも消えて、今、カーディガンを2枚重ねて首に残されたマフラを巻いている。そういうと嘆くようだがそうではなく、そもそも暖房を入れるということがよく分からない。自分の為に自分を暖めるということが私には解らない。子どもの頃からそうだった。実家の自室はいつもとても冷たくて、心地よかった。父が入ってきて「風邪を引いたら損をする!」と強く叱られたこともあるが、解らないのだから解らない。私が風邪をひくと何が損なのだろう? 父は悪くないと思う。私が解らない人間に育っちゃったのだ。
 そして、「電気代の為に我慢しましょうね」というのは、90年代〜00年代が子ども時代である私にとって、よく分からない原罪なのだ。


 あと、ついでに、「原罪」の意識がまったく無い人間のことが、理解出来ないユさんだよね、と家人と話した。今現代を生きている人間で、罪の意識が無い人間なんているのか?(答え:いるっぽい)


 話が逸れたが、寒波であって、私は私の温め方が解らない。
 aicoちゃんが「靴下とか履かなきゃ駄目だよ」と云ってくれていたような気がする。流石、たぶん彼女は私の理解者だ。(今、私は靴下を履いていない)

 尼崎のキャンドゥでレッグウォーマと靴下を3足ほど買ったので、効果はある筈だ。私はレッグウォーマはわりと好きだし。本当は在りし日のルーズソックスみたいなデザインで黒色だったら良かったのだけれど、それは見つからなかった。流行遅れなのかな。編もうかな、と思った。
 

      
 正直なところ、私は血圧の薬をのんでいるので、Gokuriグレープフルーツジュースをのむとよろしかないという説もある。
 でもね、そういうことに気を遣う人間じゃなく、育っちゃったっていうかね。

 薔薇はドライフラワーにして、ちゅーりっぷは飾ったら可愛かったけれども、居間では暖かすぎる気がして(Cさんが居るから、暖房も点くわけだ)、一旦、玄関への廊下に花瓶を移した。花瓶というか、お酒を呑まない子が花瓶だと誤解して私に買ってくれたデキャンタなのだけれど、ちゃんと花瓶をやっている。

      
      

      

     

新年(遅い)

 毎年、年始にこの2冊を読むことにしている。私は年始だからって何をしようとか、どうしようとか考えるのはあまり好きではないので、(初詣もしないし、誘われたときは断った)こういう決め事はあまりしたくないのだが、一応、ここ数年、そうしている。

 

        
 まあ、人生の目標は、死ぬ前の日までは生きることだなあ〜と思う。そんな感じでやっていけたら、よし。本当にやりたいことなんて、本当は無いような気がするし、本当の「本当」なんてものは無い。
 なんか、目標って、チャンピオンになるとか、大手出版社から本を出すとか、ありそうなものだけれど、特にそれは……。チャンピオンってね……何のチャンピオンなのかさえかも判らないし。

 世界中のひとたちの多くが心地よく過ごせたら良いと思う。その為に出来ることは、出来るだけ、やりたいとは思うけれど、私は基本的に悪いひとだ。その方が良いと思っている節さえある。
 困る。
 基本的に、いつも困る。


 年越しだった。
 変わらず、困っている。
 この2冊の本は、そういう私を少し救う。

      

元旦の日の入り

 初日の入り。「さよなららリグッレト」 彼女に壊しすら/されないハイウェイを覚えていた/朝、ハルモニイを競っているね、貴女が発するソプラノ、私が差し押さえる/もう暫し逢えないひとたち、光射す場所にいて欲しい。暫しや玉名 ’況してや貴女’


       
 


         

「ながため」

ながため


病院で
子どもの泣き声をきくのは悲しいな
身が痛く細るような気持ちで
おとなが泣いていてもきっとつらいだろう
新しい廊下にベンチが連なる
五分と満たない診察で
──骨が死んでいますね。
私が泣いてしまったら
誰かが聞いて何かを思ったらいけないので
泣かない

「とにかく早く診てもらって」
弟からメールが届く

リハビリをするために
生きるために
リハビリをするために
生きているかのような
健康のために生きる
ために健康を保つために日々生きるために
日々生きるために診察を受け
処方薬を受け取る
ために生きる



(2017年9月6日 中央総合病院整形外科廊下 13:50)



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