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Komma usw.

背後にクロチネさんがいる。

『オルゴールのルリ』

「オルゴールのルリ」


 砂が動くことの無い星で、足元に何かが引っ掛かって屈み込むと、古い書物が落ちていた。
 砂を払って目を凝らすと、
『月が綺麗ですね』
 風化したパルプ紙にその一文が浮かんでいた。……月が、綺麗か。そうだね、月は綺麗だ。ここが月だよ。いつかの時代にか宇宙に来た最後の人類はこう遺したらしい──地球は青かった


 その日のことは忘れた。

「──地球は青くて美しい、」
 ルリが話してくれる。ステイションの自室で、僕は過ごしている。白い部屋には僕とデッキチェアと観葉植物と、ルリ。
「こっちから地球を振り返って、そう云ったことが歴史に記されている」
「へえ、誰が」
 僕が問うと、
「ががーりんが」
「ががーりんがー?」
ガガーリンっていうひとなの、そのひと」
 ルリは物知りだ。そういう設計だから。
「ふうん」
 僕は半身をチェアに預けて横になる。
「ふうん……ががーりん。へえ……」
 ルリは鉢の横に直立している。ステレオセラミックドールのルリは、姿勢良く立っている、というより、姿勢の悪い形を作ることは出来ないだろう。
ガガーリンだよ」
 ルリが、まるで百年の秘密を零すかのように、キラキラと囁きを落とす。
「うん」
 僕は薄眼を開けてルリを見た。声は見なくても聞こえるのに、どうしてルリの方に目を遣ってしまったりするんだろう。
 宇宙の闇に光る微小な星々の瞬きと、ルリの声は似ている。僕が七歳のときに貰った、記憶のオルゴール。セピア色の髪と瞳。テレヴィジョンシティの砂嵐が止まらないままのこんな日には、オルゴールを傾けながら半分睡っているかのように時を過ごす。
「来るよ」
 何かを察知したような小声。
「何が?」
「ほら、足音、ほら、」
「なんなの? 歩いたら音がするの? あ、地球で?」
「相合傘だよ、あれは」
 ルリは半分夢みるように、地球の思い出を流し続ける。
 相合傘って何だろう。そうか、傘か。雨滴が降り注いでいた頃の地球では、傘というもので護身していて、それは濡れないように。でも、どうして濡れたらいけないだろう? 当時なら太陽光で乾くのでは?
「傘だよね。あいあいがさって何?」
「冷たい雨と相合傘。寒くて身を寄せているの。ふたりでひとつの傘を使っているの」
「なんで? ひとつずつ持てば良くない?」
「違うの、ひとつしか傘は無いの」
「残念なひとたちだね」
「ううん」くすっとルリが笑った。「濡れそぼつふたりの歩みは、恋の足音」
「は?」
「だぁからー」ルリは首を振ってみせる。「仲良くなれるでしょう?」
「誰が?」
「そのふたりが」
「そうかな?」
「地球で傘を差していた頃は、そうだったの」
「つまり、シェアしてるんだ?」
 ふふっと笑い声を立てるルリ。
「恋ってシェアなのかなあ。ルリには知ることは出来ないね」
「僕もそうなんだろうね。でも恋ってなんか良いの?」
「仲良くなったら、雨が上がって、傘を閉じて、ふたりは夜空を見上げる!」
 何故か芝居がかった表情を作るルリ。
「そして、云う。『月が綺麗ですね』ふたりの視線が交差する!」
「はあ」
「恋に恋するルリなのよー」
 ルリはたぶん、ちょっと夢見がちで翅がひとつ抜けた人形という設定になっているんだろうなあ。無意味に楽しそうだったりするときは、そういうことなんだろう。年だって取らない。
「月にいるあたしたちはには永遠に無理なはなしだよね」
「うん、まあ、違う星に行って、その地表から月が見えて、それでそこに人類がいれば、可能性はあるかも」
「月には恋する機会が無いんだなあ」
 ルリは楽しそうだ。
「恋が無い場所なんだよ」
「それって、『月は綺麗ですね』だね!」
 オルゴール・ルリがくるくると笑った。恋の足音の記憶を捨てて、僕らは綺麗な月にいる。恋する惑星から遠く離れて。








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